日本のマンションのルーツを探る
日本において、「マンション」という言葉は、いつしか英語本来の意味を離れて、邸宅型の「高級共同住宅」という意味に使われるようになりました。(英語では、マンション=戸建ての邸宅、高級分譲共同住宅=コンドミニアム)おそらく、これは、戦後の共同住宅変遷の中で、木造アパートなどの大衆型共同住宅に対して、鉄筋コンクリートの高級な共同住宅を、より差別化して販売する上で「高級な住まいをイメージさせるための転用」から端を発し、一般名詞化したものと思われます。
※日本で最初にマンションの名前が付けられたのは、昭和34年に信濃町で分譲された「アジアマンション」だと言われています。
では、日本におけるその高級な共同住宅を意味するマンション(RC造共同住宅)は、いったい何時ごろから建設され始めたのでしょうか?大衆化しつつある現在のマンションと比較して、当時のマンション(RC造共同住宅)は、社会的には、どんな存在だったのでしょうか?
今回は、マンションの草創期の時代背景と共に、日本におけるマンションのルーツを探ってみようと思います。
<賃貸RC共同住宅のルーツ>
さて、日本で本格的な鉄筋コンクリート造の共同住宅がつくられたのは、大正デモクラシーも末期のことです。5万8000人もの死者を出し、東京市全体の42%もの面積を焼失させたあの「関東大震災」の2年後、大正14年のことです。
東京御茶ノ水に、北海道大学森本教授主宰の「文化普及会」が企画した賃貸型の「お茶の水文化アパート」が建設されました。地下1階地上4階のRC造で、延べ床面積は、837坪でした。この、マンションの草分けともいえる文化アパートは、名前こそアパート(当時は、アパートという言葉が、今の大衆型共同住宅のイメージはなく、洋風のモダンな建物というイメージだった)で賃貸形式ですが、当時としては、現代の超高級分譲マンション「億ション」に匹敵するほどの豪奢なものでした。
家賃(月額)が、1部屋型50円、3部屋型200円というもので、この金額は、東京でも中産階級には、到底手の出ない高額な家賃だったといいます。それでも、住戸内は、すべて純洋式のベッド・イス・テーブル・マントルピース・電話・ガス・調理台を始め、エレベーターまでもが完備され、さらに、掃除洗濯は、専門のメイドが行なうという、その時代としては、画期的な超「憧憬仕様」が人気を博し、計画発表段階から、外国人を中心に、かなりの人が申し込みに殺到したといいます。
<分譲RC共同住宅のルーツ>
分譲マンションの第一号が着工されたのが、賃貸マンション誕生から遅れること四半世紀、昭和26年
のことでした。東京都が、地下1階地上11階の大型共同住宅を、渋谷宮益坂に建設しました。「宮益坂アパート」と名づけられたこの分譲マンションは、総戸数126戸、1階が店舗、2階〜4階がオフィス、5階〜11階が居住用という、複合用途型のいわゆる「下駄履き型マンション」でした。
分譲価格は、60万円〜110万円(当時のサラリーマンの平均年収は、30万円〜40万円程度)で、購入者のほとんどが、高級官僚や社会的地位の高い、高額所得者だったといいます。
一方、民間による、純然たる個人向け、分譲マンションの第一号は、昭和31年1月に日本信販が分譲開始した「四ツ谷コーポラス」だといわれています。
5階建て28戸と規模は小さめでしたが、住戸形式や設備など、なかなか凝ったものでした。
まず、住戸タイブが、A型とB型の2つがあり、A型は、23.3坪で上下2層のメゾネットタイプ(233万円)24戸、B型は、15.6坪の平面タイプ(156万円)4戸で、間取りや内装は、A型B型とも、水回り以外は、購入者の希望をすべて取り入れるという「フリーオーダー形式」が採用されました。
また、設備面も、エレベーターこそなかったものの、共用廊下にダストシュートやアメリカ製のディスポーザーを設け、ゴミ捨ての手間を省くアイデアや、全戸に設置された電話機やテレビの屋外アンテナ端子など、時代の最先端を追求したものでした。
なお、分譲主が信販会社ということもあり、マンションにおいて、月賦販売が初めて行なわれたのも、この四ツ谷コーポラスでした。購入者は、著名な会社社長や医師・大学教授などでしたが、およそ半数の人が、この月賦方式を利用したそうです。
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